2011年5月21日土曜日

宮崎吾朗 第2回監督作品は『コクリコ坂から』 Kokuriko-Zaka Kara

スタジオジブリの2011年夏の新作映画は『コクリコ坂から』
 

 2006年に『ゲド戦記』でアニメーション監督デビューを果たした、宮崎吾朗の二作目である。
 企画・脚本は宮崎駿。『借りぐらしのアリエッティ』に続き、宮崎駿企画・鈴木敏夫プロデュースによる、スタジオジブリ次世代の劇場作品となる。


 キャラクターデザインには近藤勝也。『崖の上のポニョ』に続き、作画監督を務める。


 美術監督には若手を起用。
さらに、音楽は武部聡志。著名なプロデューサーであり、屈指のヒットメーカー。
異色といえば異色な組み合わせ。


 原作は同名の少女漫画。
 しかし、『コクリコ坂から』の背景は原作通りの、軽妙な学園コメディではないようだ。


それは、カルチェラタンの物語である。


◆  ◆  ◆  ◆ 


 原作コクリコ坂からでは、物語前半の題材は制服ボイコット運動である。
 一方、宮崎駿は時代がかったクラブハウスの建て替え反対運動とした。


原作連載は80年代のはじめ、なるほど中学高校生にとって制服というお仕着せが、単なる強制か骨董品にしか見えなくなっていた時代かもしれない。


 もう一つ、物語の骨格はいわゆる出生の秘密だが、この題材を宮崎駿はより注意深く大切に扱い、デフォルメは極力抑えている。マンネリなアイデアは、逆にいじらないほうが物語を邪魔しないからだろう。


 さらに、時代設定を1960年代とした。昭和38年、東京オリンピックを翌年に控えていた年である。
 原作とは決定的に違うのがここだ。
 原作にある少女漫画らしい、簡明で単純なつくりごとの80年代とは比較にならないほど、重い。汗と労働が匂い、戦火に生きぬいた人々が溌剌と日本の各層を支えていた時代である。戦時に生まれた子等はようやく成人し、戦後のタケノコ生活に生まれた子はいまだ幼かった。
 
 実写映画であれアニメーションであれ、日本で映像作品にこの時代を選べば必ず直面しなければならない重さ、それが今作にも明瞭に反映されている。


 高度経済成長期に至る激烈な製造と建設、同時にあった徹底した破壊と改造、このようなテーマを描くには、アニメーションは不向きであろう。アニメーションは、プロットの説明に魅力を発揮するのではなく、プロットの描写それ自体が美しいからである。
 代わりに、今作の制作者は物語の本筋、恋愛の背景として時代性を埋め込んだ。


 ただ茫洋と描かれていた原作の行方知らずの父親は、社会と世界の動乱に無縁ではいられないリアリティを刻まれ、確固とした存在感を持った。


 原作において面白おかしく狂言廻しの代役に使われただけの制服騒ぎは、学園紛争を彷彿とさせる学生の拠点闘争らしきものへと大胆に変更された。心情の拠り所とする建築物を象徴として、映画の舞台装置として活用することは宮崎駿の得意とするところである。
 
 そもそも、主要人物の遊興の代償としてしか扱わず、最後まで善悪・正義不正義を明らかにすることなく記憶の風化で終わらせた制服騒ぎは、同窓生や教師へのシニカルな視点からして大衆の存在を無視しているシナリオであり、原作後半の素直で順風なラブストーリーの展開からしても、およそ現実的な空気はなく、当然社会性もまったくない。
 脚本作業における原案の徹底的な破壊と再構築は宮崎駿の通常といえるが、ここでもそうだったに違いない。モラルの欠如したままの青少年像は不要であったろう。